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Twitterと長いお別れ

posted at 2023-08-26 17:59:00 +0900 by kinoppyd

Twitterのことは未だに好きだし、ここ10年くらいの人生で結構大きな割合を占めていたと思っている。正確には、ここ10年で人生を大きく変えた物ははたくさんあるけど、そのたくさんのもののそばには常にTwitterがあったという表現の方が正しいかもしれない。Twitterそのものが自分の人生を変えたわけでは無く、自分の人生を変えた出来事の記録がたくさんTwitterに残っている。当初Twitterが流行り始めた頃の表現は「マイクロブログ」だったけど、自分は未だにその表現がTwitterを表すのに最も適していると思っている。ミニでもショートでもなく、マイクロなブログ。これがTwitterの本当に素晴らしいポイントだったと思っている。

2000年代後半、しょこたんがアホみたいな勢いでブログを更新しているのを、アホだなと大して気に留めずに見ていた。たいした中身が無いし、くっだらねー戯言みたいなものを見ても面白くなかったからだ。ブログの記事一覧を見ても、意味不明なタイトルが並ぶだけで、わざわざ一個一個クリックして中身を読もうと思わなかった。けどあれは、かなり先駆的なTwitter的表現だったんだなとだいぶ後になって気づいた。Twitterが画期的だなと最も感じるところは、タイトルが必要ないところだ。しょこたんのブログのタイトル一覧ページを眺めてうんざりした体験が、Twitterには無い。Twitterを開けば、フォローしている人の最新のブログが常に目に入ってくる。このワンクリックの違いの体験が、Twitterの起こした変化の中で一番自分が好きだったものだ。

そもそも、人間はタイトルを考えるのが苦手だ。Matzも言っている。「名前大事」。そんな大事な物を、毎日何十個もポイポイ生み出せるはずが無い。だから一部のそんなこと気にしない人を除いて、自分の今をブログにショートポストしようなんて奴は多くなかった。そのコストを取り除いて、今自分が感じたことをそのままブログにポストして良いんだよ、ってやってくれたのがTwitterだった。あるいは、Twitterは本文なしのタイトルだけを投げるブログと言えるかもしれない。使い始めた最初の頃はそのことに気づいていなかったけど、あるとき自分の過去の行動をTwitterを使って思い出そうとしたときに、そのことに気づいた。タイトルなしで気軽に投稿できる公開日記なんだということに。

そのことに気づいてからは、自分のTwitterを使うときのメンタルモデルは、わりと自分用公開記録っぽくなっていった気がする。あとからTwitterを使って自分の行動を思い出したり、Twitterにメモっておいてまとめたりということはよくやった。惜しむらくは、パブリックアカウントでは何でもかんでも全てを公開できるわけではないので、心に思ったけど公開できないような気持ちや、あまりに私的で個人情報を特定可能な事柄に関しては全て抜け落ちてしまっているというのがままある点だ。鍵垢と本垢を使い分けるような器用なことができる性分ではないので、これだけは記録という意味では片手落ちだなと思った。

他には、TwitterはRSSがついに到達できなかった大規模なフィードという幻想を現実にしてくれた。Twitterが世を制し、全ての情報がTwitterに集まってくれば、Twitterでキーパーソンをウォッチしておけば勝手に情報が入ってきてくれる。そんなわりと理想に近い世界を、Twitterは作ってくれた。Twitterで情報を発信すると人が集まるので、さらに情報を発信しようとする人が集まる、という良い意味でのバイラルループも達成していた。おかげさまで多くのRSSリーダーが死に、それはそれで困ったが、そのときは深く気にしていなかった。Twitterが死ぬとは思ってなかったからだ。

Twitterは、現在進行形で破滅に向かって進んでいる。残念だけど、これはおそらくもう元に戻ることはできない。これからTwitterは、Xとかいうスーパーアプリの一部になると宣言されている。そして、実際なるんだと思う。まずそれだけでも眉をひそめるに値するが、最近は過去の資産へのアクセスや、現在進行形のWebへのアクセスにすら介入を行っている。ちょっと前にも、Twitterでの発言の自由さは偏っているとか、運営はWokeに肩入れしすぎだとか言われてたけど、そういうレベルではなくユーザーの歴史であったり、Webというつながりの自由そのものに手を出してきている。プラットフォームそのものの健全性に見いだす価値は、仮に自分とはソリが合わなくても私企業だから好きにしろと思う。けれど、ユーザーの歴史やWeb対する冒涜は、プラットフォーム以上にコミュニティに対する軽視だと思っている。今はまだXに対して苦々しい顔をするだけで済んでいるが、いずれはXを直視できなくなる日が来るだろう。それがTwitterとのお別れの日だ。

一度成立した巨大なコミュニティがすぐさま破滅することはあり得ないので、この先ゆっくりと時間を掛けて消滅していくと思う。それこそ、Yahoo! GeoCitiesとか、2ちゃんねる(まだ終わってないけど、終わったみたいなもんだと思う)とかと同じで、活発に参加する人はいなくなるけど細々と続いて、そして誰からも忘れられるような存在になっていくと思う。今はまだ、自分もTwitterにお別れを言うことは無いけれど、徐々に疎遠になっていって、そしていつの間にかお別れを言うこともなくさよならをしている気がする。さみしいけれど、永遠に続く物は無い。そしてこればかりは、個人の努力でどうこうなる物でも無い。相手はただの私企業だから、その所有者にはXを好きにする権利がある。自分にはどうすることもできない。

Twitterとの長いお別れをしながら、Twitterから離れた後どうやって自分の記憶をインターネットに残していくかを考えなくてはいけない。BlueSkyやMastodonなどの分散型SNSも移住先の候補ではあるけれど、イマイチ心情的にピンときていない。今後も色々出てくると思うので、特に急ぐことも無くゆっくりと静観していたい。ひとまず当面は、個人ブログに回帰することになると思う。ここ数ヶ月は、Twitterがいついなくなってもいいように、個人ブログを書きやすいように整備してきた。いままで技術ネタ以外をブログにあまり書かなかったが、それ以外のこともきちんと書いていこうと思って、育児の記事を書いたりもした。しばらくはこのブログを良い感じに公開日記にしていく方向で良いだろうと思っている。そのためには、もっと短いポストをポンポン投げられるようなメンタルにならないといけない。ここで改めて、ポストにタイトルを付けたくないなと感じる。

最後に、Twitterとすごした一四年間は楽しかったし、これからもまだしばらくは続くと思うので、言えるうちにありあとうと言っておきたい。